2009年12月06日

社会教育者辞典 成田久四郎より

横山祐吉(一九〇五〜一九七八)

 横山は非凡な先見性と抜群の企画力を備えた運動のリーダーとしての資質に恵まれていました。またその経歴に見るように音楽、演劇、雑誌の編集などの遍歴から青年団運動に転身した異色の存在でした。この異色の文芸肌の素質こそ後年、文化活動を主体とする青年団やユース・ホステル運動のリーダーとしての彼に大きくプラスしました。運動を進める上での絶妙の運営技術を見せたのも、かかる素質に負うところが大きかったです。

彼は明治三十八年一月二日、東京都に生まれました。
大正十一年三月、官立東京音楽学校(現東京芸術大学)中途退学。
同十二年五月、私立新劇研究所研究科終了。
昭和二年二月、新報社に入社、雑誌少女号編集主任。
同四年二月、財団法人社会教育協会に勤務。
同十年三月、大日本連合青年団嘱託編集部勤務。
同十五年十二月、大日本青年団が大日本青少年団に統合され、
同十六年一月、大日本青少年団文化部教養課長。
同十九年三月、総務局広報部長。同二十
年五月、大日本青少年団解散。
同二十年七月、財団法人日本青年館事業部長。
同二十三年一月、常務理事。
同年二月、機構改革で事務局長。
同二十六年二月、日米文化交流計画により米国視察(三ヵ月)。
同年九月、日本青年団協議会事務局長。
同年十月、日本ユース・ホステル協会(JYH)創立、理事長。
同二十八年六月、日本青年団協議会青年団研究所長。
同三十一年八月、辞任。
同年七月、JYH協会専務理事。
同三十九年八月、国際YH連盟執行委員。
同四十一年四月、JYH協会副会長・理事長。
同四十三年一月、総理府青年の船、第一回団長。
同四十五年八月、国際YH連盟副会長。
同四十七年十一月、JYH協会々長。
同四十九年十二月、名誉会長。
なお十指に余る政府審議会委員をもつとめました。
昭和四十一年十一月、藍綬褒章受章。
同五十年五月、勲三等旭日中綬章を受章しました。没年二月七日従四位に叙せられました。

 戦前の活躍もさることながら、むしろ彼の真骨頂は、焦土の余熱が容易に冷めることももなかった終戦直後の活躍にありました。当時の国内情勢は敗戦の混乱、食糧難など最悪の事態におかれていました。餓死線上の民衆の怨嗟の声が巷に満つるを見るにおよんでは、青年団運動のごとき迂遠なる事業の末だその時期にあらざるを観念せざるを得ませんでした。

 ところが彼は、これを一向に意に介することなく、戦後青年団の育成のために東奔西走、新生青年団誕生の産婆役として、CIE青少年部長のダーギンやタイパー等を通じてGHQとの渉外活動など、もろもろの難問題に身を挺して当たりました。その甲斐あって昭和二十六年五月、日本青年団協議会が結成され、事務局長に就任しました。このとき、すでに四十六歳でした。それから二年後、事務局長から初代の青年団研究所長に転じ、「共同学習の手引」(青年館発行)や、「勤労青年教育基本要綱」をまとめあげるなど、着実に成果を挙げつつありましたが、日青協三ヵ年計画の行き詰まりの犠牲となり、ついに昭和三十一年度の研究所の予算ゼロに追い込まれ、青年団、青年館を追われるがごとく去って行きました。組織人である限り、いずれは避けられない試練ではあったが功労者である彼が組織のあまりにも非情冷酷に涙を呑みました。

 しかし彼は屈しませんでした。アメリカ視察の折り感銘を受けたユース・ホステル運動に後図をかけました。幸いにも僚友中山正男ら多くの協力と彼が多年培った青年団組織のOBの支援を得ることができました。苦難の連続ではあったが僅か五十余名の会員から六十三万の会員を擁する大組織に飛躍させました。この余勢をかって国際YH連盟の副会長に就任し∫YHの国際的地歩をゆるがぬものとしました。

 彼は短身痩躯、色黒く、その目は窪んで、澄明、時に異様な光を放ちました。あの体のどこから、あの活力が生まれるでしょうか−彼の行動には前進あって小休止なしのフル回転でした。日曜、祭日お構いなしの行事計画には周囲が、へき易したものです。運動に対する彼の情熱はすさまじかったです。

 戦後の青年団の産婆役を見事に果たし、日本のユース・ホステル運動を創始し、これを飛躍的発展を遂げしめ、戦後の青年運動の栄光の道を歩みつづけた一人の青年運動家も火の燃えつきるが如く昭和五十三年一月二十六日七十三歳の生涯を閉じました。


 田澤は昭和八年貴族院議員に勅選されて、憂国の質問演説を行いましたが、それが単なる議場の拍手で終わったことは是非もない日本の運命であったのかも知れません。

 二・二六事件後の広田弘毅内閣に内後大臣として入閣を求められたがそれを断りました。昭和十四年には淀橋青果青年学校の校長に(無給)自ら志願して就任しています。かれは日本の動向が次第に非常時から戦争へと傾斜してゆくあの時代に「人生最高の悦びは自由創造にあり」とする新自由主義を信条としてよくぞ生き抜いたものです。

 だが青年団、壮年団の育成、政治教育、労務者教育など数々の偉業を体当たりでなしとげた教育思想家、田澤の歩んだ栄光の道も時流には抗し難く、かれの晩年に挫折の影を見るのです。そして太平洋戦争も深まる昭和十九年三月、四国善通寺の講演の旅にあって、あえて敗戦を予言し、その場に卒倒しました。以来わが家のしきいを踏むこともなく限りなき失意と、祖国の前途を案じながら十一月二十四日、旅路の善通寺で五十九歳の生涯を閉じました。

社会教育者辞典 成田久四郎より
(文章・文体は変えてあります)
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2009年12月05日

横山祐吉氏

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2009年09月22日

横山祐吉 1905‐1978

横山祐吉
 1905‐1978

 明治38年1月2日生まれ。麻布中学校卒業。東京音楽学校(現東京芸大)中退。社会教育協会事務局にはいります。日本青年館事務局長などをへて、昭和26年日本ユースホステル協会を創立し、理事長、会長を歴任。青年の国際交流につくし、43年第1回「青年の船」団長をつとめました。昭和53年1月28日死去。73歳。

 昭和16年、文部省はすべての青少年団体を解散、大日本青少年団に統合再編成させましたが、戦争激化にともない昭和20年6月、これも解散させられました。戦争が終わった後、各地で再生の胎動をつづけていた青年団活動は、昭和23年再建の第一回全国青年団協議会を開催するに至り、昭和26年には、日本青年団協議会の結成をみました。その立て役者が横山祐吉です。当時、日本青年館の事務局長であった横山祐吉は同年6月、第2代の日本青年団協議会事務局長に就任しました。

 そして昭和26年2月、米国国務省の招きで「アメリカ教育視察団」が訪米しましたが、一行の団長、横山祐吉はアメリカユースホステル協会会長であったロックフェラー3世に合い、ユースホステル運動についていろいろな知識を得て帰国しました。同年9月横山は、日青協第3回理事会において、「ユースホステル運動を推進する件」を提案し承認を得ています。

 その後、日本ユースホステル協会の設立および各支部組織の発足にあたって、日青協関係者の協力によるところが多くあるのは、前述のように横山祐吉と日青協との関係があったからです。また、小金井浴恩舘や、協会設立記念ホステリングの舞台となった、山中湖清渓寮などは青年団ゆかりの建物です。

 昭和26年初夏、横山はこの運動を日本ではじめるべく親友中山正男(当時東光石油社長)に相談したところ、中山は荒廃した日本を再建するのは青少年の健全育成からであるとの信念から賛意を表し、共に運動をはじめることになりました。

 当時、すでに運動に着手していた学生ワンダーフォーゲルの関係者は、このことを知ってさっそく、中山をたずね話し合った結果、相提携してこの運動を推進することになりました。ジャーナリストや政財界に顔のひろい中山は、青年運動の理解者である下中弥三郎(平凡社社長、世界連邦主唱者)をまずこの運動の賛同者として口説きおとしました。その後関係者の努力で短時日のあいだに、次々と幅広い賛同者や理解者は増えてゆき、協会設立の準備は急速にしかも着々と進んでいきました。

 日本において自然への新しい考え方が芽生え近代的な旅行形態が誕生したのは、昭和初期の頃です。旧来の「物見遊山」という言葉に象徴される享楽的な考え方に対し、スポーツ、レクリエーションを中心とした旅行という積極的な考え方が若い人たちを中心に急激に拡がってきました。

 登山、ハイキング、ピクニック、キャンプ、スキーなどの野外活動が新しい感覚をもって諸外国から紹介され、鉄道省の強力なキャンペーンもあって参加人口は急増しました。野や山や海辺には、リュックサックを背負って出かける人たちが多くなり、これらスポーツ、レクリエーションの愛好団体が数多く組織されました。

 また、それぞれの分野の雑誌、機関誌、案内書、技術指導書、紀行図書などが数多く出版されました。このように昭和初期から太平洋戦争に至るまでに、脱都会的な自然復帰運動が非常に盛んになりましたが、戦争がはじまるとそれは次第に消滅するか、国の要請から戦争予備運的なものに変わっていってしまいました。

 ワンダーフォーゲル運動もその一つでした。

 昭和6年(1931)、出口林次郎によってドイツから紹介されたこの運動は、奨健会 W・V部として発展し、最盛期には全国で5万人にも及ぶ会員をもつにいたりました。この運動は学生のあいだにも広まり、昭和12年ごろには各 大学が集まって学生WV連盟を結成しました。第2次大戦中は行軍班などに編制替えされた連盟の活動も中断しましたが、昭和23年(1948)には、全日本学生連盟として復活しました。

 日本に於けるユースホステル運動発足まで 国際交流の面から戦前のユースホステル運動についてみてみますと、昭和11年(1936)はじめてアメリカのユースホステルメンバー約30名が日本を訪れています。この時は賀川豊彦(社会運動家)が中心となり、その受入れの世話をしたといいます。

 昭和13年(1938)には、大日本聯合青年団によって日本とドイツの青少年団の交歓行事が行われました。日本からは30名がドイツ各地を訪問しましたが、現地での宿舎はすべてユースホステル(ユーゲント・ヘルベルグ)を使用したといいます。

 日本ユースホステル協会は、横山祐吉を中心とするメンバーによって作られ昭和48年には全盛期を迎えます。しかし、昭和49年11月の日本ユースホステル協会理事会では、第6代会長の横山祐吉の退任が決定されました。

 横山は、昭和26年協会発足以来23年間の長きにわたって、専務理事、理事長、会長の枢要地位を占めてきました。会員ゼロの時代からユースホステル運動を育ててきた横山が、会長を退任して名誉会長につかざるを得なくなったのは、御本人にとっては無念だったでしょう。

 中山正男と車の両輪の如くコンビを組み、日本のユースホステル運動の発展に献身して来た横山も、その5年前に力と頼む中山を失い、うしろ髪をひかれながら第一線を退いたのでした。

 名誉会長に退いた横山は、執行委貞6年、副会長6年、計12年の長きにわたってつとめた国際ユースホステル連盟の役員も、昭和51年(1976)8月に退き、シルマン基金委員となっていましたが、昭和 53年1月、病を得て73歳で死去しました。
posted by ss at 08:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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